「刑事弁護士」という言葉はよく耳にします。逆に「民事弁護士」という言葉は聞くことがありません。
弁護士は民事を扱うのが当たり前だからです。なかなか刑事事件だけでは食ってはいけないのです。
しかし、当事務所もそうですが、戦前にも民事事件をほとんど扱わず、刑事弁護に情熱を傾けた弁護士がいました。
花井卓蔵 – 刑事弁護の先駆者
戦前も刑事弁護士と呼ばれるスーパースターがいました。
まず、英吉利法律学校(現在の中央大学)出身の花井卓蔵を挙げなければならないでしょう。花井卓蔵は広島県三原出身で、地元で教員をしていましたが、自由民権運動に参加して免職となり、一念発起、上京して英吉利法律学校に入学し、最年少で代言人試験に合格して弁護士となりました。
その後、弁護士として数々の著名事件を担当し、政財界の疑獄事件のほか、幸徳秋水事件、日比谷焼き討ち事件など枚挙にいとまがありません。民事でも足尾銅山鉱毒事件などを担当しました。
とにかくその弁論は明快にして大胆で、裁判官や検察官を圧倒させるものでした。「花井の前に花井なく、花井の後に花井なし」と言われました。花井のライバルの検事は小原直でした(小原直回顧録)。
花井は、事務所は神田に設け、たいそうな繁栄ぶりで弁護士として生涯1万件にも及ぶ事件を担当しました。何も世間の耳目を引く重大事件のみをやっていたわけではなく、小さな事件も引き受け、民衆に人気がありました。
30歳代は政治にも進出し、貴族院議員に何回も当選し、普通選挙法の議員立法を目指しました。残念なことに火災事故で亡くなりました。
布施辰治 – 社会的弱者の弁護人
もう一人、スーパースターの刑事弁護士を挙げるとすれば、布施辰治です。
布施は明治大学法学部を卒業後、高等文官試験に優秀な成績で合格し、司法官試補として地方を回っていた際、ある殺人事件を扱うことになり、不憫な被告人に同情し、どうしても自分ではこの被告人を裁けずに司法官試補を辞職してしまうのです。
そして弁護士試験を受験して合格し、弁護士になりました。
布施は情に篤い男で、社会で差別にあっていた弱者の弁護人となりました。その中には、在日朝鮮人や在日中国人、更には、治安維持法により弾圧を受けていた左翼の方々もいました。彼らは社会的弱者であったので、弁護士に高い報酬を払うこともできません。
それでも手弁当で弁護活動を行っていたのです。もちろん、それでは荒木町にあった事務所の経営は成り立ちません。そこで布施は他の弁護士の3倍、5倍も働き、そのうちの3分1、5分の1を民事事件に当てて何とか経営を維持していたそうです。
まとめ
こういう先人がいると勇気づけられます。特に、戦前は国選弁護制度がなかったので国からの支援もまったくありませんでしたが、民衆の立場に立って、官と闘う弁護士はこうあるべきです。